
さて、「絵本よもやまばなし」を何から始めたらいいのだろうか。やっぱり、私と絵本とのかかわりから語っていくのが順序というものだろうか。
絵本は人生で最初に出会う本、というのはよく耳にする言葉だが、私の場合も例外ではなかった。私の記憶に残っている人生最初の出会いは、「講談社の絵本」の中の一冊『四十七士』(小泉長三文・神保朋世絵)だった。「講談社の絵本」は、大日本雄弁会講談杜が一九三六年一二月一日に刊行を開始したシリーズで、戦争のため一九四二年の四月に打ち切られるまで、二〇三冊を出した。その第一回配本が1『乃木大将』、2『四十七士』、3『岩見重太郎』、4『漫画傑作集』の四冊で、その時私は小学校の一年生だった。新聞にのった大きな広告を見て、四冊の中から『四十七士』を名ざしで母親にねだり、買ってもらったことははっきり覚えているのだが、問題はなぜ『四十七士』だったかである。四十七士、つまり「忠臣蔵」「赤穂浪士」などについての情報は、日本中にあふれていたとはいえ、私がそれをどこから得たのか。ひょっとしたら四冊の本のうち、私に題名が読めたのがこれだけだったからか。
(創刊号:1997.10.30)
『四十七士』の物語を書いた小泉長三(一八七八〜一九四一)は、別名を堤糸風といい、新聞記者を経て作家になった。
「少年倶楽部」「少女倶楽部」などの講談社の児童雑誌を舞台に多くの短編を発表している。その素材は英雄・豪傑・孝子・烈女といった人物が中心で、いわば講談調の時代小説が得意だった。のちには大人ものの小説も書くようになったが、『四十七士』といった事件は、最も作風に合った題材だったに違いない。
一方、絵を担当した神保朋世(一九〇二〜)は伊東深水門下の日本画家。子ども向けの仕事は「少女倶楽部」などやはり講談社の雑誌が主で、深水同様、美人画が得意だった。
しかし、小泉・神保のコンビによる仕事はこの『四十七士』一冊だけで他にはない。小泉は同じシリーズの一二三『大石良雄』の文も手がけているが、この本の絵は小田富弥が担当している。ちなみに忠臣蔵関係の絵本は、このシリーズでは以上の二冊だけなので、数は少ないけれどもその全てを小泉が書いたことになる。他には一七三『忠臣菊池武時』の付録部分を執筆したりといった仕事がある程度で、晩年の下り坂という印象は否めない。
(第2号:1997.12.20)
「講談社の絵本」が出たついでに、しばらくこの絵本シリーズについて書いてみようと思う。
いずれはこのシリーズを対象に功罪を含めての総括・研究が本格的に行われるだろうと思うが、ここでは私個人の思い出に則したいくつかの点を記しておく。
講談杜の杜史によると、このシリーズの発想は、当時二歳か三歳だった皇太子(現天皇)を念頭において考えられたという。つまり、皇太子がそろそろ絵本を見る年令にさしかかったが、皇太子の手にとってもらえるような絵本がないではないか。ならぱ我が杜で作ろう、というのが動機だったらしい。
のち、私が国際児童文学館で働いていた時、皇太子夫妻が来館したが、私がわざわざ目をひくように並べておいた「講談杜の絵本」にはほとんど関心がなく、もっぱら「キンダープック」が気になるようだった。聞けば、幼時の頃に手にした絵本は、月刊「キンダープック」だったそうで、たまたま開いてあった魚の図鑑のようなぺ-ジがなつかしく、「ぜひもう一度見せてください」と頼まれたりした。
つまり、講談杜の意図は実らず空まわりに終わり、皇太子に代わって、私をはじめ当時の日本のたくさんの子どもたちが、その恩恵にあずかったわけだった。
(第4号:1998.3.20)
講談社が社運を賭け(?)た「講談社の絵本」は、売れに売れて、一気に日本における絵本の市民権が確立された観があった。
そのため、この絵本で育った私たちの世代は、知らず知らずのうちに、一つの「絵本観」、つまり絵本とはこういうものだという、絵本に対する見方、考え方を植えつけられた。それではどんな絵本観だったか。
この『四十七士』の松の廊下の場面を見てほしい。小さくてわかりにくいと思うが、ふち、に白いわくがついている。しかしそのわく以外はすべて彩色されているのが大きな特色なのである。白く見えている部分にも実は色がかかっていて、その上に黒インクの文字がのっている。シリーズが全てこの形式で、のちに「ベッタリ絵本」と名づられるようになった。
(第5号:1998.5.25)
「ベッタリ絵本」は、文字通りどのぺージにも、べったりとカラーが印刷され、白い部分、つまり紙のままに残っている部分が全くない。「講談社の絵本」の場合には、白いふちがわずかに残っていたが、現在でも本屋さんの店頭で、くるくる回る台に乗った絵本の殆どは、このべったり絵本で、その影響カがいかに大きかったかがよくわかる。
だから、この絵本によって無意識のうちに色彩がかかったものが絵本だ」という考えを植えつけられた私は、その後、杜会人になって始めて外国の絵本を見た時、白い部分が残っているという事実に、信じられないほどのカルチャー・ショックを受けた。
白い部分があって当り前、という絵本で育ってきた、五〇歳以下の人たちには到底わかってもらえないと思うが、大げさにいえば、自分の全人生を否定されてしまったほどの大ショツクだったのである。
その後、日本の近代絵本史を勉強するうちに、戦前にも外国の絵本の翻訳があったことや、日本人の作家・画家の手で作られた、白い部分のある絵本もたくさんあったことがわかってきたが、残念ながら私は子ども時代にそうした絵本には全くお目にかかる機会がなかった。
それほど「講談杜の絵本」の存在が大きかったということで、それは戦後もしばらく続くことになる。それではこの「ベッタリ絵本」が、具体的に絵本としてどんな意味を持っていたのか、について考えてみよう。
(第6号:1998.7.15)